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「10年後も青が好きでいられるか」で始まった、青に生きる軌跡

青師の青峰です。
2012年に青を仕事にすると言ってから10年、現在は青を仕事にし「青に生きて」います。

10年前、青を仕事にするといったとき「そんなものはビジネスにならない」「それが何の役に立つのか」と経営者の方を含め、沢山の方から意見をいただきました。
その多くは否定的で、僕自身も何度か「このままでいいのだろうか」と感じたことはありました。

ですが、やはり「本当に好き」なら辞める事は出来なかったまま、今に至ります。
2020年からまさに「自分のやりたい事だけで生きる」時代に突入し、僕にとっては大きな追い風がやってきました。
売り上げは毎年倍になっていき、青をベースにしたコンサルティングはクライアントの売り上げを半年で3倍になるような事が普通に起きています。

10年間向きあってきた「青」は人生のあり方を整え人を幸せへと導き、事業のあり方を整えて関わる人の幸せを生み出し、世界のあり方の基準にまで繋がっています。

ちょうど節目の10年を迎えた今、青が仕事になる軌跡を振り返ってみたいと思います。

目次

2012年 マレーシアにて

「僕には何も無い」という声が何度も自分の内側からやってくる。
2012年8月にサラリーマンを辞め、英語力ゼロで海外移住して間もなく「何も出来ない自分」という壁に当たっていた。

初めての海外生活、初めての起業、初めての取締役と初めてだらけの中、出来たばかりの会社の売り上げを立てなければならない。

しかし、サラリーマンしかやったことのない人間には「売り上げを立てる」という思考回路も無ければ、どこから考えてよいかも分からない。

唯一もっていたのはITスキルで国家資格もあったが、マレーシアでは何の役にも立たない資格。
ITスキルは創る技術であり、それが売り上げに結びつくようなモノではないと感じていた。

人と話をするのが嫌だからIT系へ進んだ僕からITを無くすと「ただの人」という感覚になってしまい、更に言えばここはマレーシア。
仮にIT技術が人並みにあったとしても、人件費と言語力(ゼロ)を考えるとコストパフォーマンスが悪いどころか、戦力にすらならない。

元々マレーシアで起業する理由になった「子どもの教育のために移住する」というライフスタイルを提案していくビジネスモデルに必要なWebサイト、メールマガジンなどは創り上げられたものの、当時子どももいなかった僕にとっては、この事業内容に「自分の色」は存在していなかった。

そして海外にいることにより「日本人であること」も当たり前ではなく、むしろそれ自体がハンデになるように感じており、アイデンティティを急速に失っていくような感覚で「何とかしないと、自分のいる意味が見いだせなくなる」というような危機感を感じていた。

青が好きである事に気づく

「そんなに青が好きなの?」
一緒に会社をしていた取締役が僕の状態を見て、かけられた。

青が好きかと言われれば青が好きではある。
いつからと言われれば、間違いなく「生まれた時から」で、「息を吸うような感覚で青が好き」で生きてきている。
「息していますよね?」とでも聞かれない限り「息している」とは思わないのと同じで、僕にとっては青がそうだった。

なので、当たり前のように青い服を着ていたし、持ち物はほぼ全て青だったしで、それが僕にとっては自然だったのだけれども、昨夜も「青 絶景」で検索して出てきた画像を3時間ずっと眺めていた事を思いだし、この言葉から僕の青好き加減が異常であることに気づいた。

本当に青が好きである事を確認する

青が好きである事には気づいたものの世の中には青が好きな人は沢山いる。

僕は全身を青に塗るような人間ではないし、持ち物も青で揃っているが徹底的に意識している訳では無い。
それで「僕は青が好きなのだろうか」という問いかけを自分にした。

正直「自分よりも青が好きな人は沢山いる」感じがするし、そこはどうやっても確かめようがない。
ただ、僕が「青に対してもっている感覚」は他の人の「青が好き」とは違うようにも感じていた。

アイデンティティが崩壊しかけるほど様々な「自分の強み」に向きあってみたものの、どれも「しっくり来ない」どころか「自信を持てる」氣もしなかった。

だけども「青」に関しては何か違う。
どれだけ自分に問いかけても「青に関しては負ける気がしない」と思う。

根拠は全くないし、証明のしようもないけれど「青が好き」ということは僕にとっては真実。
そして「自分の幸せは好きを仕事にしたとき」とどこかで考えていた僕は「青を仕事にしたい」と思った。

しかし、青を仕事どころか、ビジネスもやったことのないため道筋は全く見えない。
そもそも「青を仕事にする」と考えている人すら見当たらない。

でも「僕は青が好きで、これを仕事にしたい」という想いはどんどん高まっていった。

そして、自分で自分に「10年後も青好きでいられるか?」と問いかけたら即答で「Yes」だった事もあり、「青を仕事にしよう」と決めた。

青好きであることを伝えはじめる

自分が青を仕事にするならば「僕が青が好きである」を知ってもらう必要がある。
それならばまずは伝えていこうと考えた。

ブログ、Facebook、メールマガジンなど自分を名乗るときには「青好きの」をつけることにした。
また、覚えて貰うために、インパクトがある投稿用のアイコンが必要になると考えた。

サラリーマン上がりなので顔出しには抵抗があったので、青いイラストを描いて貰ってアイコンに設定。
さらに、写真を撮っての投稿にはずっと使っていた青色のMacを自分の分身としておくことにした。

青Mac

覚えて貰うために青好きと青Macを全面に押し出して毎日投稿を欠かさなかった。
すると不思議なことに3ヵ月もしないうちに「青Macの人」と認知されるようになり、僕が投稿を続けていた場所すべてで覚えて貰う事になった。

青がキッカケで仕事が入ってくるように

青が好きである事を毎日伝え続けて、数ヶ月。
取締役として仕事をしていた、教育移住の事業にお客さんがやってきた。

その人の要件から言うと僕の会社でなくても対応できそうな内容。
「なぜ、うちを選んでくれたのですか?」と聞いたところ「私も青が好きなんです」という理由が返ってきた。

ご縁はどのように繋がるのか分からないと感じつつ、「青が結んだ縁」が確かにあることが確認出来た。
それと同時に「青自体が仕事になってはいない」という感覚もあり「青を仕事に」という想いはさらに強くなった。

ただ、どうやっていいかは未知数で、道はまだまだ遠い感じはしていた。

仕事にはならず2年が過ぎる

青好きブログ

情報としてはマレーシアへ住む方が困らないようにする内容が多くを占めていてたものの、毎日のように「青好き」と書き続けたブログは2年で700記事を超えた。
その間に週2回のメールマガジンや、Facebook投稿なども含めれば、2年で1000回以上は伝え続けたことになる。

もちろん、人に会えば「青が好き」と言いつづけた。
青が好きという認識はして貰えるものの、そこから何かが進むようなことは無かった。

「青好きを辞めたら」という声も、起きている事だけ見れば正論になっている。
ただ「辞めるなら息を止める方がまし」と思うくらいに想いは変わらず、続ける事はやめなかった。

そんな中、storys.jpというサイトが始まり「そこで物語を書いたら認知が拡がるかもしれない」という話を聞いた。
試しに「20年を経て明かされた出生の秘密。他界した母親が僕に望んだこと」を書いてみたところ、ランキング1位に。

その手応えを感じたので、マレーシアに移住する前の「青い財布に変えたら人生が変わった話」を書くことにした。

青い財布の話がYahoo!ニュースに

最初は流行に乗って書いた「青い財布の話」
書いて公開した時にランキング1位をとり、その後も続きを書く度にランキング1位にのるを繰り返していった。

そして、少し時間が経ったときに「Yahoo!ニュースに掲載される」という連絡がメールにはいった。

掲載と同時に凄いアクセスとなり、1日で5000人は訪れていた。
その記事を読んだ人からFacebookへの友人申請が相次ぎ「青をやっていて初めて役にたった」感覚になった。

青い財布の話を書いたことで「青がキッカケで海外起業した」ことを再認識し、青について書いたモノが反響を得たことで「やはり僕は青なんだな」と感じていた。

世界一の青好きへ

青い財布の話がYahoo!ニュースになる頃に「青が好きである事を証明したい」という想いが出てきた。
色々と考えた結果「青好き」で検索したときに1番上に表示されるようになったら、世界で一番と言えると結論づけた。

それから、青好きで1位になるのに必要なことを調べながら記事を組み立てることに。
様々な文献をあったり、リサーチを繰り返して記事を書いた。

書いてすぐは全く評価されず、試行錯誤を続けた。
記事に足りない所はないか、情報を増やせないかを繰り返して約8ヵ月。

とうとう1位に。

完全に自己満足であるこの記事が、2年後に身を結ぶとはこのとき思ってもいなかった。

傾いた会社経営と立て直し

ちょうどこの頃に会社の事業が思わしくなくなり、立て直すことに。
必死に耐えながら、青については辞めなかったものの「青やっている場合か」とは、何度も言われることに。

青には関係のない所ではあるものの、新しい法人を立てて現地で初めての日本食フードコートを創ったり、この頃から華僑の人たちと仕事をし始めたりと、何をしていたかの記憶が殆どないくらい忙しい毎日。

それでも「青」のスタンスは変わらず、伝え続ける事はやめなかったが、仕事になることもなかった。
最終的に流れが出来て、シンガポールにも法人を立てたのが2015年の話で、そこから約半年後に少し落ち着いて青の活動が出来るようになった。

人生青色というサイトを立ち上げる

毎日のように文章を書いていくと思考の整理がされていくこともあり「Google検索を考えない自分の思考をまとめるサイトを創りたい」となった。

青=真理で、真理とは何かを思考し続けた結果、自分の中に「答え」が沢山生まれてきた感覚があり、それを表現したくなったのが理由。

検索エンジンとは相性が悪い内容で、検索からの流入は全く期待しないコンセプトで立ち上げる異例のサイト。
ただ、書きたい事を書くことが出来るようになり、このサイト自体は楽しく始められた。

人生青色

この頃まで、ずっと相談事を受け続けている流れはあり、数百人以上の人と話をした全員が「スッキリしました」「腑に落ちました」と言われ続けたことで「ここにも役目があるのでは?」と考えるようになった。

そうして出てきた答えが「その人の本質(青)を見つけて言葉にする」をやっていると結びつけられることになり、それは青コンサルティングの原型にもなっていった。

そして、2016年3月に立ち上げたこのサイト、様々なことに向きあう中で一つの回答にたどり着いたのが、大きな転機になった。

世界へ絶望する

真理の探究をすると、様々な側面が見えてくる。
世界の仕組みや世の中の理、そして資本主義という社会の構造。

日本の置かれている状況、対処療法の世界、見ていくほど「世界はどうしようもない」という結論に至る。

その時に書いた記事が「たった一つの身近な疑問が世界の本質に繋がった話。対処療法と根本的解決に溢れる資本主義システム

このときの僕は「どのように生きても、この先詰む」という結論を出した。
この後、発想の転換をしなかったとしたら「人生に希望はない」という事で、全ての人を論破出来るほどに思考していた状態だったので、より世界は暗く見えた。

生きている意味を問う

母親の言葉から「幸せに生きる」をずっと考えていた。
しかし、世界は絶望に満ちている。

しかし、どうしても諦められなかった「青を仕事にする」という想い。
そこから考え方の転換をし始める。

「全てのコトに意味がある」は真理であると結論をつけていた僕は「今、生きていることに意味がある」と結びつけた。
そして「生きている意味があるならば、どんな意味があるか」という問いに「役目を果たすため」という答えを出した。

つまり「自分の役目を果たしていれば生きていける」という結論に至った。
これは「役目は自分が幸せと感じる方向にあり、その方向が青である」という最終結論に繋がることになる。

2016年に書いた記事

突如やって来た一通のメール

いつものようにメールボックスを開くと「寄稿の依頼」というメールが。
開いてよくよく読むと「ANA」の文字。

何か別のANAかと思ったが、署名に書いてあるサイトを開くと「青い航空会社」のページが開かれ、本物だと気づく。

一瞬、夢でも見ているのかと思い、落ち着いたが現実は変わらない。
「迷惑メールのようなものではないか」と持っているITスキルの全てを使って調べたが、どうやっても本物。

そこに書かれていたのは「青のプロダクトをリリースするので、それに合わせて青をテーマに旅グッズを紹介して貰えませんか」というような内容だった。

2年前に書いた「青好き」で検索一位になった記事は2年間ずっと1位に居続けており、その記事を見ての依頼だったともわかった。

とうとう来た「青の仕事」に高ぶる気持ちを抑えながら、承諾のメールを送った。

青が仕事になった日

2016年9月15日にANAのサイトに掲載。(掲載された記事
話をいただいてから、掲載されるまで「本当に掲載されるのか?」という不安はあった。

それくらい夢見心地な状態で「ずっと描いていた自分の目標」が達成される時が来た瞬間、何とも言えない感情になってしまった。
やりきったという感覚でずっとフワフワとしていると同時に「これから始まっていく」という気もしていた。

日本でセミナーを開催

年末、日本に帰国する予定があったので、合わせてセミナーを開催することに。
テーマは【華僑に学ぶ日本人にしか出来ない世界の戦い方】(セミナー動画

当時配信していた「青色海外ビジネスの法則」というメールマガジンで告知をして、180名くらいのメンバーに対して送信したところ30人集まり、驚くほどの集客率になった。

「セミナーに参加した理由」の3割くらいが「青が好きだから」という上に、集まった中には小学生もいて、ご縁の不思議さを感じつつも無事に終了。

こうして怒濤の2016年が終了する。

活動休止前、最後の青活動

青好きで検索1位になってから2年半が経とうとしたころ、もう一つの青依頼がくる。
「TABIZINE BLUE WEEK」という企画の青をテーマにした一週間の中で「青の人」パートを書いて欲しいというものだった。

これも記事を読んでの依頼になっていて、2年半前に書いた記事の意味が大きく出ていた。
当然、断る理由はなく、書き上げ寄稿。(書いた記事

この後に実業側で大きなトラブルがあり、青の活動はストップする。

6500万円の負債と日本への帰国

その日は突然やってきて、僕の生活は一変した。
詳細は省くが6500万円の責を突如追うことになってしまったのが原因。
常に青でいるにも関わらず、全てが裏目に出ていく状態で、最後は周りにいたほぼ全ての人が味方でなくなった。

その流れで、日本へ帰国することになったが、海外で5年生活したことで「無収入の外国人」扱い。
家も借りられないし、カードも作れない状態に。

されに負債に充てていったお金のために、手元はゼロ、日本に仕事もなかったため、日雇いをしながらしのぎつつ日本の生活を立て直さなければならない。

売れる物を全て売りながら3ヵ月耐えて、5月に仕事を見つけることが出来、そこから返済の生活が始まることに。
このときはお金のことよりも、自信喪失した上に人間不信になってしまい、一気に世界との扉を閉じてしまった。

一生出れることのない檻にいるような感覚で、未来を見据えることは出来なくなっていった。

青に助けられる3年間

新しく見つけた仕事では字のごとく「死ぬ気」で働き、新しいサービスをリリース、月300時間の業務改善、新規法人の立ち上げ、社内体制の再構築など「結果」をひたすら出す事で自分を保っていた。

それでも、やはり喪失感は消えない毎日。
なにをやっても「何かを無くした感覚」は消えなかった。

そんな中「青」をキッカケの連絡が途絶えることがなく、青のご縁や仕事は繋がっていた。
発信はしなくても「青」をやっている間は自分を保てている感覚になる。

物理的にも精神的にも追い込まれそうになったら必ず「青」のイベントが起きて「青に助けられ続けた」3年間は低空飛行ではあったものの、確かに青は続いていた。

青を守りたいと動き出す

ずっと青は変わらず、青に守られ、青に生きている。
そんな中でコロナが拡がっていくことに。

「このままでは青が消えていく」という不思議な焦燥感と大きな危機感を感じ、青の発信を再開しようと決意。
しかし、3年半の空白期間に対人関係のトラウマから「投稿」のボタンが重く、中々押せない。

それでも「青」に対する想いが強く「青を守りたい」という一心で投稿。
すると暖かいコメントに溢れて、青の活動を再開できることになった。

とはいえ、失った自信は取り戻せていない状態で「始めてみたものの、ここからどうする?」というのが本心だった。

青をやること

「青いモノと青い場所で青にある」が青をやるということ。
それが2017年はすべて裏目に出て、大変な状態になった。

もう一度同じ事が起きるかも知れない世界に、再度足を踏み入れようとしている自分。
何度も「同じ失敗を繰り返すのか」という内側の声が聞こえてくる。

これまでの繋がりは殆ど使えない、お金も時間も余裕はない。
でも「青へ進む」と決めたら止まることは出来ない。

青は僕にとっての絶対指標であり、人生そのもの。
「青が好き」と同じように、否定することはどうしても出来なかった。

「前に道はなくても、やれば出来る」は海外の経験から得たモノ。
今までの経験を全て動員して「青をやる」と前に進むようにしていった。

青の始まり、宮古島

「青をやる」と決めて最初にやってきたのが宮古島。

行くと決めてはいたものの、その時の現状を考えたとき「もうあと5年はいけないかもしれない」という覚悟もあった。
そうしていった宮古島はずっと「青」

初めて見た海の色に心を奪われ、自分の青がどれだけの可能性を秘めているかを感じ取ることに。

青に向かうことを決意するには充分すぎる滞在。

信じられないようなことが起き続けて帰ってきたのは、ちょうど今から2年前、36歳の誕生日を迎える前日。
その次の日に扉が開くことになります。

青に生きるが完全始動した誕生日

全てが青だった宮古島滞在。
自分が「青に生きる」を肯定された旅になりました。

そして次の日に迎えた誕生日「青と言葉」が自分の役目としてやってくることに。(その時に書いた『青言葉』いう役目を受け取った

ここから僕の人生は青に向けて急加速をしていきます。

龍神と共に1年で88カ所の訪問と数百人との出逢い

宮古島に行った次の月から、様々な場所に呼ばれるように。
「青に生きるのは、次の時代の生き方だ」「人生の教科書です」という人が出てきて「青」という生き方に共感し、応援してくれる人が出てくるようになりました。

行った先で新しい人に出会い、その人がまた新しい縁を呼んでいく感覚で、3ヵ月ほどで毎週どこか違うところにいるような生活に。

1年で88カ所、細かい場所に分ければ数百カ所に訪れることになりました。
そして、その間の旅は龍神ともにあり、訪れる場所場所で増えていく状態へ。(その時の流れを話したYouTube

この1年を書き始めると、ここまでの8年と同じような分量になるので、おいおい公開していきたいと思いますが、この1年で感覚の力が1万倍以上になり、宇宙全部を管轄する青龍に出逢い「全てが手に取るようにわかる」ところまで進む事になります。

全てをわかった上で青へ導く流れ

「全てが手に取るようにわかる」ようになったときから、青の話をする機会が増えていきました。
そして「青に生きる」へ向かう人のセッションや、事業のコンサルティングも合わせて増えることに。

答えがわかる状態なので「言ったことをやれば結果になる」状態が続きました。
ただ、この状態になると出会える人が限られてくるようになり、訪れる場所の数は少し落ち着くように。

そこから「青へ導く」が加速し、関わった人の変化もとても大きくなりました。
そうしてコンサルをした人の中から「青に生き」て僕と同じ状態になる人が出始めました。

「青を仕事にする」と言い始めて9年半のこと。
自分以外の人が「青に生きる」を体現してくれたことで「やっとわかって貰えた」「自分のやってきたことが実を結んだ」と感じられ、人生で初めてのうれし涙を流しました。

1歳半で母親を亡くしたときから、愛を手放し、自分の感情を殺し「青」だけを探求してきて「自分以外の人の幸せ」を完全に達成出来た瞬間でした。

そうして「僕が居なくても青は拡がっていく」と感じ、どこか「青に恩返しがやっとできた」とホッとしたのも覚えています。

取り戻した感情と壁

そして「青というステージでやりきれた」と感じ始めたこの頃に「感情」を少しずつ取り戻していっていました。
この「感情」は段々と大きくなり、それまで殆ど感じなかった「辛い」「寂しい」という感覚が増えていくことに。

振り返ればこの10年間近く「青を一緒に」進めてくれる人はおらず、ずっと一人と感じていました。
今年の10月には無視できない所まで大きくなり「青事」を進めるのが段々と重たくなりました。

「青の場所に行くのに、その場所に行くと悲しい思いをする」という、自分の今まで言ってきた「青に生きれば上手くいく」から外れる可能性が出てきました。

しかし、この時点では解決策がなく日に日に近づいてくる期限にプレッシャーを感じるようになっていました。

運命的な出会いと「愛」を知る試練

38歳になる誕生日の約1ヵ月前、運命的な出会いがあり「この人と一緒にやっていく」という感覚になりました。
それと同時に「無条件の愛」とは何かを初めて知ることになります。

そして、青である人同士の間に金色の愛が流れると「ずっと続く最幸な状態」がそこにある事を体感したとき「これが次の青だ」と直感しました。

全ての人が「自分が青であり、愛を循環させられる青の人に出逢えたとき、その人達は最幸を得る」ので「その世界を創りたい」とも感じました。

そのためには「関係性における多くの固定概念」を外さなければならなくなり、10年後の未来に必要なブロックを全て外していきました。
その数は500以上。

「青を仕事にする」と言い出した感覚と同じで、さらには辛さを感じるようになったので、何も無ければ心が折れて動けなくなるくらいに、とてつもなく辛い状態に陥りましたが「一緒にやっていく人」がいると感じていたし、最幸な状態を知ったから進めました。

38年封じ込めていた感情の解放と、絶望からの消滅

そうして10年分のブロックを外して「これで未来を創れる」と思って振り返ると「誰もついてきていない」という現実を突きつけられました。
合わせて38年分の喜怒哀楽の「怒哀」を一気に体感する事になり、体が破裂するような衝撃を受けることが何度も続きました。

「最幸が広く理解されるのは10年後」という感覚はあったので、それまで色々なことを組み立て、伝えていきたいと感じていた矢先に起きたため「また10年一人?しかもこの辛さが続く上で?」という感覚に陥り、それは感情が戻ってきた僕にとっては絶望でしかありませんでした。

10年かけてやってきて、自分を含めた人々の幸せへ導いてきて「これから」となったら次の10年を突きつけられて、今から離されてしまう。

幸せが手に入りそうになったら、10年後に逃げられてしまった感覚で「人を幸せに導くのに、自分が幸せになることは許されないのか」と思った瞬間、全てが無かった方がよかったという感覚から「無の無」が生まれ青峰隆という存在がこの世から消えました。

外と繋がるアプリをスマートフォンから全部消して「青峰隆」でいる自分を辞めることに徹していました。

一人では無いと気づき、復活

存在を消してから2日経ったとき、少し生きていく感覚が戻りつつありました。
まだ動く気力は殆どなかったのですが、Facebookを開くとメッセージが2件。

僕が消えてしまったことを察知した友人がメッセージをくれていました。
そこにメッセージをし始めたとき「一人ではない」と言ってもらい、自分を支えようとしてくれる人がいることに気づいたとき「全ての感情」が自分の中に宿っていました。

ここまで約2週間、感情の無かった僕に対して感情を取り戻させる試練になっていたようで、それと同時に「愛」とは何かも取り戻す算段として設定をされていました。

その流れもあって「愛」とは何かもわかるようになり「愛である青と金を合わせた青金が生まれたとき、人は最幸になる」という答えに行き着きました。

人の最幸せは青と金の循環にあり、それが世界を変えていく

「自己愛(魂)の青循環」「他者愛(心)の金循環」この2つが極まったとき、人は最も幸せになれるし、ずっと愛が循環するようになります。
これは離れていても関係なく循環させられる事も確認しました。

ずっと愛が循環すると愛は無限に増えていくため、その愛に溢れた状態で人に接するコトができる。
そうすると、その愛を受けた人も「愛に生きよう」に変化して、「青金」を目指すようになる。

「青金関係」が増えれば愛の総量が増え続けるので、最後は世界が変わる。
ポイントは「誰かが一人が拡げるのでは無く、皆で自然と拡がる」というところです。

誕生日4日前に来たメッセージ

青と金を循環し「青で愛に溢れる最幸なあり方」が次の時代に必要で、その道を進みたいと思った時、以下のメッセージがやってきました。

あなたは世界に絶望した2016年にキリストを越えた逸材。
神界はこの数千年の間、待ち望んでいました。
前例のない人間であるので、この1ヶ月間はどこまで耐えられるのかを実験した。
もちろん、死なないようには調整していたが、実験してみたかった。ごめんね。

今の時代に今の仕組みはあっていないので、変える必要がある。
あなたはキリストのように崇められるような存在にはならず、神格化の一般化を進めていくことになる(全員が神様で並列の世界)

この世界で一番前を進む者としていけるように、この神在月で全ての配置を変更し、サポートに入る人間も整えた。

この世を変えていくにあたって、全ての神域に入ることを許可する。
むしろ、入っていってどんどん変化させて欲しい。

11月24日に新しい時代が始まる。
ほぼ全ての準備は整った、神界はあなたの青に全てをかける。

数ヶ月前「神在月が終わった次の日が誕生日」と感じたときに「全てをその日に任せる」と言わた感覚はありました。
ですが「全部?」と思っていたら、本当にその通りの日を迎え、キリストさんの継承を受けた8000年に1人の存在として「青で愛に溢れる最幸」な世界へ導く状態になりました。

・宇宙に存在する全龍神の導輝(しき)
・人が持つ特殊能力の100%コピー
・全神域への立ち入り許可
・全てが手に取るようにわかる

この状態をもって、青峰という「人」ではなく「青」が中心となって、全ての人が共に「青で愛に溢れる最幸なあり方」へ向かうように導くお役目。

最後は誰もが並列で誰もが最幸で、全てが青を向いて肯定される世界にする。

青で最幸な自分であり、青の時代を創る

これから大変なこともあると思いますし、理解されないこともあると思います。
でも、青が何であるかを知り、愛が何であるかを知り、そして僕は一人ではないと知った今なら進んでいけます。

前を行く人の役目は、後に続く人が行きやすい流れを創ること。

人が皆「最幸」に生きられるように、僕がまず「青で愛に溢れる幸せな状態」であり続けて「青の時代」を創り上げていきます。
青で皆「最愛で最幸で豊か」である世界になるように。

ここまで辿りつくのに、関わった全ての存在に心から感謝しています。
これからも末永く「青」とお付き合い頂ければ、僕は幸せです。

青峰 隆

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この記事を書いた人

青として、青へ導く仕事をしている「青が仕事の人」

真理を伝える『青言葉』と未来を繋げる『青写真』で人や会社をあるべき姿に調和しています。

生まれたときから青に惹かれ、寄ってくる体質。
青い財布に変えたことがキッカケで英語力ゼロのまま海外移住し、その記事がYahooニュースになりました。
そして「青好き」で検索1位になりANAから仕事を受けてから「青が仕事に」なっています。

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