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20年を経て明かされた出生の秘密。他界した母親が僕に望んだこと

僕は生みの母親の顔の記憶は無い。どんな人なのかも知らなかった。

ただ、ずっと疑問に思っていた。

なぜ、僕が生まれて来てすぐに亡くなったのか。

僕はなぜ生まれてきたのか。

「♪♪♪〜♪♪♪♪〜」

ジョージ・ウィンストンのLonging / Loveが鳴り響く。

父親が弾くピアノはいつもこの曲だ。

30年経った今も曲目は変わらないから

僕が生まれる前からずっと弾いているに違いない。

だからこの曲を聞くと思い出す。

母親のいなかった子どもの頃を。。。

目次

記憶に無い母親の記憶

物心ついた時には

母親は木目の綺麗な額の中ある白黒の写真だった。

記憶の中に母親はいなかった。

すでに「母親は死んだ」という事を知っていた。

どこからかガンであった事も聞いていた。

ただ、それだけ。

いつ、亡くなったのかも、名前も知らなかった。

子どもである僕に気を使っていたのもあるだろう。

誰も僕の前では母親の話をしなかった。

いないという事が当然かの様に毎日が過ぎていった。

そして5歳の時、父親が再婚し母親が出来た。

「お姉ちゃん」と呼んでいた人が「お母さん」になった。

5歳になって始めてきちんとした家族としての生活が始まった。

そして、生みの母親の話題は更に出てくる事は無くなった。

新しい母親の前で亡くなった母親の話をするのは

失礼にあたるし、子どもである僕に話すのも未だ適当では無いと周りは考えてくれたようだ。

周りの配慮のお陰で、

母親が早くに亡くなったという事が生活に影響することは無かった。

ただ、小学4年生の時に立て続けに起こった事件により

死んでもおかしく無かったのだけれど、助かった。

それから、どうやら自分は「生かされている様だ」と感じ

「自分が生きている意味」を問うようになった。

なぜ、自分は生まれて来たのか?


問いかけても誰も答えてはくれない。

そこから自分の生きている意味を探すようになった。

そして、この頃から否定される事を極端に恐れる様になった。

怒られたり、否定されたりすると

自分の存在意義が無いと言われている様に聞こえてしまう。

お前はなぜ生まれてきた?生きている価値があるのか?

どこからとも無く問いかけてくる。

すぐに分かるはずもない。

なぜ生まれてきた?生きている価値はあるのか?

分からない、でも、母親の為に自分は死ねない。

何度繰り返したか分からない。

ただ、

「生かされているのだから

 何かやらなければいけない事があるに違いない」

という使命感で保っていた。

明かされた真実「なぜ、僕が生まれてきたのか?」

そして月日が流れ、

20歳を迎えた時に「もう大人になったし大丈夫だろう」と親戚が話してくれる様になった。

20年間、僕だけが知らなかった真実。

名前はチカ。(以下チカ母)

チカ母は頑固で言い出したら絶対にやりきってしまう性格。

そして、周りに左右される事無く決断して行動する強い女性。

でも、妹、弟想いでとても思いやりのある長女だったそう。

話を聞けば聞くほど誇らしい気持ちになれる様な母親だった。

では、なぜ今まで語られる事が無かったのか?

僕が受け入れられなくなる事を懸念したのもあるらしいが

そこには大変な事件があったということだ。

それまで語られる事の無かった事実。

チカ母がガンだとわかった時、僕はすでにお腹にいた。

治療すれば母親は長く生きられるが、僕は死ぬ。

どれだけの葛藤があったのかそれはもう分からない。

だけど、その選択に迫られた時、チカ母は僕を産む事を選んだ。

ガンだと知っていたのは当事者と父親側の親戚のみ。

結婚する事は決まっていたが、

時間が無いという事が分かり急いで事を進めた。

事情をしらない母親方の親戚は猛反発。父親を責めた。

ただ、父親はチカ母の希望を叶えるために何も語らず我慢したという。

「絶縁」レベルでの話だった様で、

父親には当時相当なプレッシャーがかかったに違いない。

父親は27歳の時には、すでに頭が真っ白になっていたからだ。

全てが終わり、周りが全てを理解した後、

父親への怒りはそのまま尊敬に変わっている。

「あなたのお父さん程、我慢強い人は見たことが無い。」と。

ここまでしてもらい、生まれてきた事を知った僕は

この命がけで産んでくれた母親に何か返せる事は無いか

と思うようになった。

もう他界して20年。

直接返せないが、母親が望んだ事を何か叶える事はできないか。と。

すると、タイミングを測ったかの様にチカ母の妹さんが

「生まれてくる子どもに望むことは何?」

とチカ母に聞いた話をしてくれた。

それはただ、一言。実に母親らしい一言だった。

「ただ、幸せに生きてくれれば、それでいいの」

この言葉を聞いた時は涙が溢れた

この母親の言葉に

そうか、僕が幸せに生きていくという事が恩返しになるのか

と気づかせて貰った。

それからというもの、自分が幸せになる道を模索した。

ただ、自分だけが幸せになるのは違うと思った。

自分だけが幸せになるために生かして貰っているわけじゃない。

沢山の感謝を返していかなければいけない。

でも、全ての人を幸せにするなんて事も1人じゃ無理だ。

だから、関わる人たちから幸せにすることに決めた。

出会った人を出会う前より幸せにし、出会った人と共に幸せになっていく

僕が定めたライフワーク。どんなステージだろうと根本は変わらない。

どんな時もいつも身につけていた

幸せの象徴「青色」と共に

貰った命を青く輝かせて行きたいと思っている。

天国で見ている母親が産んだことを誇りに思えるように。

「♪♪♪〜♪♪♪♪〜」

Longing / Loveが鳴り響く。

この曲を聞く度に僕は思い出す。父親の思いを。

沢山の人に守られて幸せになることを望まれて育てられた事を。

そして、母親の願いを。

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この記事を書いた人

青として、青へ導く仕事をしている「青が仕事の人」

真理を伝える『青言葉』と未来を繋げる『青写真』で人や会社をあるべき姿に調和しています。

生まれたときから青に惹かれ、寄ってくる体質。
青い財布に変えたことがキッカケで英語力ゼロのまま海外移住し、その記事がYahooニュースになりました。
そして「青好き」で検索1位になりANAから仕事を受けてから「青が仕事に」なっています。

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